Special Feature No. 008
22時の馬喰町に、
灯りがある。
日本橋馬喰町・夜だけ開く「深夜喫茶 幻想」
序
夜にコーヒーを飲もうとすると、選べる店は急に少なくなる。
22時を回ったあたりから、これがはっきりする。座れて、静かで、豆から挽いたコーヒーが出てくる場所。昼なら当たり前にあるものが、夜には探さないと見つからない。
日本橋馬喰町、新道通り。地下でも二階でもなく、歩道に面した路面の一軒。ここは、夜からしか開かない。
一路面で、扉が開いている
入口に、鉄の飾り格子が立っている。透かし彫りの黒い衝立のようなもので、これが目印になる。格子の向こうに短い廊下があって、その先に扉がある。
階段を降りない。夜の店にしては珍しく、ここは歩道と同じ高さにある。はじめての店で地下や二階に上がるときの、あの一瞬のためらいが要らない。
中は、カウンターが一本。木の一枚板が奥までまっすぐ伸びていて、黒いスツールが並んでいる。店内は8席、入口のテラスに4席。それで全部だ。
テラス席は夏がいい。風が通る時期に、夜の馬喰町で外の椅子に座ってコーヒーを飲めるのは、かなり贅沢な部類に入る。
二灯りが、一段落ちる
天井から、フィラメントの見える電球が吊ってある。最初からそんなに明るくはない。
それが、日の暮れるころにもう一段落ちる。
ろうそくは、店を開けたときから点いている。ガラスの器に立てたものが、カウンターにいくつも置かれている。変わるのは照明のほうだけだ。落ちた分、この小さな火が前に出てくる。
店の中で、夜が一段深くなる。明るさが変わっただけなのに、さっきまでと違う場所に座っている感じがする。
秋が深まると、外が暗くなるのも早い。火に灯された場所が要る、というのはたぶん人間のかなり古い部分の話で、それをこの店は毎晩やっている。
三コーヒーに、手を抜いていない
夜だけの店だと聞くと、コーヒーはついでかと思うかもしれない。逆だった。
カウンターには豆の瓶が並んでいる。エスプレッソマシンがあって、ハンドドリップの道具も一式ある。フィルターコーヒーだけで常時8種類あり、これは別紙のリストになっている。
エチオピア、ケニア、グアテマラ、コロンビア。精製方法まで書いてある。昼のスペシャルティコーヒーの店がそのまま夜に開いている、と思えばいい。
アメリカーノを頼んだら、軽めと深めが選べた。その日は少し胃が重かったので軽めにしてもらった。聞かれなければ言わずに終わっていたことなので、この一言があるのは嬉しい。
エスプレッソが700円、アメリカーノが900円。夜にこの中身が出てくることを思うと、安いほうだと思う。
四香りが、人を呼ぶ
この店のいちばんの特徴は、たぶん匂いだ。
店が狭いことが、ここでは効いている。コーヒーを落とせばその香りが店じゅうに回る。8席しかないのだから当然で、席がどこでも同じように届く。
極めつけは料理のほうだ。ナポリタンを頼むと、まず音が鳴る。鉄板の上でじゅうじゅういって、そこへトマトの焼ける匂いが乗ってくる。これが回りはじめると、誰が頼んだものだろうと関係なく食べたくなる。実際、僕が頼んだときも、隣の人がうまそうにこちらを見ていた。
生ハムとパルミジャーノがたっぷり乗る。もとは生ハムだけだったのが、サラミまで乗るようになったらしい。味付けは相当に濃い。深夜に食べると病みつきになる種類のやつだ。1,300円。
そしてトリュフポップコーン。これが香りでは最強だった。
トリュフオイルとトリュフパウダーを惜しまずに使って、店内で仕上げる。あの高いところにある香りが鼻に届くと、それだけで腹が減る。香りが人を呼ぶというか、香りの紹介制というか、つくりはじめた時点でまわりの視線が集まる。注文が続くのは見ていて分かる。
袋で出てくるので、持ち帰れる。家に誰かが待っているなら、これは喜ばれる。
我慢できずに店で開けると、今度は自分のところにだけ香りが来る。食べだすと止まらない。700円。
つくっている最中、りんたろうさんも一つ二つ味見をしている。あれは、うまいから食べているのだと思う。
五苦手なはずのオリーブを、自分から頼む
僕はオリーブが苦手だ。料理に入っていたら嫁に食べてもらうくらいには苦手だった。
この店のグランドオープンの日に、何も知らずに寄った。そうしたらサービスで自家製のオリーブを何粒か出してくださって、断るのも悪いので食べた。
うまかった。サクラのチップで燻してあるらしい。燻製の香りが先に来て、オリーブの癖がそのうしろに回る。人生で、自分からオリーブを注文する店はここだけになった。500円。
腹に入れるなら野菜ビリヤニもある。肉を使っていない醤油ベースの炊き込みで、当然のようにぱらぱらしている。レモンを搾ると、味が一段はっきりする。ハーフが1,200円、フルが2,000円。小腹ならハーフで足りる。フルはかなり来る。
甘いものも手がかかっている。プリンにはトンカビーンズが使ってある。香りが豊かで、味は濃い。800円。自家製のバスクチーズケーキも同じ値段で、ゲイシャのエスプレッソを使ったティラミスが1,000円。
六ノンアルコールでも、同じ夜が飲める
頼んだのはイチジクの葉のネグローニ。ジンとカンパリとスイートベルモットに、イチジクの葉を合わせてある。1,300円。
ほかにもディルと胡瓜のジン、パルミジャーノチーズを使ったピスコ。普通のカフェのカクテルではない。
そして、ここが効くところ。メニューの★が付いたものは、ノンアルコールでもつくってもらえる。手のかかったものを、酒を飲まない人が同じように頼める。
ジュースも揃っている。青森と長野のりんご、長野・阿部農園のぶどうが三種類。ぶどうにはそれぞれ名前が付いていて、品書きを眺めているだけで時間が過ぎる。
酒を飲む人と飲まない人が、同じ卓で同じ密度の一杯を持てる。これは、夜のカフェとしてけっこう大きい。
七白い上着と、黒い招き猫
店の人は、白い上着を着ている。胸に赤い字で店の名前が入っている。香港の朝ごはん屋をイメージした一着だそうだ。その話になると、香港への思い入れをかなりの熱量で話してくれる。
カウンターの奥に黒い塊があって、何かと聞いたら招き猫だった。香港の空港で買ってきたもので、行くたびに増えているらしい。ピンクもあるという。
電池を入れれば手が動くはずなのだが、日本で買った電池がなぜか合わず、いまは置物として座っている。そのほうが似合っている気もする。
八誰も、作業をしていない
電源はある。カウンター席の後ろの壁にしっかり付いていて、角の席ならすぐ隣にある。作業をしようと思えばできる。
ただ、この店で作業をしている人を見たことがない。
みんな連れと喋っているか、りんたろうさんと話している。手ぶらで来て、何もしないで座っている人もいる。そういう場所として出来上がっている。
20時を過ぎると、席が埋まりはじめる。8席しかないので早い。遅い時間に確実に座りたいなら、早めに入ってしまったほうがいい。
細かいところだと、椅子の座面に浅いくぼみがある。尻が収まる。スツールで長居すると腰にくるものだが、これは大丈夫だった。
荷物をかける金具も貸してくれる。カウンターの縁に留めるやつで、鞄を床に置かずに済む。
九昼は、別の名前をしている
この店には、昼の顔が別にある。
同じ場所が、昼は「摩天楼珈琲」という名前で動いている。日替わりで店長が入れ替わり、それぞれが自分の店としてここを使う仕組みだ。夜に会ったたくみさんも、木曜と金曜の朝から夕方は「RAUHAA KOFFEE」という自分の名前でここに立っている。
幻想は、その夜の時間から生まれた。
名前の由来を聞いたら、あっさりしたものだった。もともと蜃気楼珈琲、摩天楼珈琲とやってきて、その流れでぱっと浮かんだのだという。
蜃気楼、摩天楼、幻想。どれも、そこにあるのに手が届かないものの名前だ。夜だけ現れて朝には別の店になっている一軒に、これ以上の名前はないと思う。
閉めるのは24時。りんたろうさんの終電があるので、そこはきっちりしている。そのうえで、「いつか深夜喫茶の名にふさわしく、本当に深夜まで開けたい」という話をしていた。
その夜が来たら、また来ようと思う。
Notes知っておくといいこと
- 深夜喫茶 幻想は火曜から金曜の夜だけ。18:00〜24:00、ラストオーダー23:00
- 24時はきっちり閉まる(店主の終電のため)
- 場所は日本橋馬喰町1-6-5 SANGO 1階。新道通りに面した路面で、階段を降りない
- JR馬喰町駅、都営浅草線 東日本橋駅、都営新宿線 馬喰横山駅。三つの駅が使える
- 店内8席、テラス4席。20時を過ぎると埋まりはじめる
- テラス席は夏がいい
- ろうそくは開店から点いている。日が暮れるころに照明が一段落ちる
- 自家製スモークオリーブ500円。サクラのチップで燻してある
- エスプレッソ700円、アメリカーノ900円。アメリカーノは軽めと深めが選べる
- フィルターコーヒーは常時8種類(別紙)
- 深夜喫茶のナポリタン1,300円(生ハムとパルミジャーノ)
- トリュフポップコーン700円。袋で出てくるので持ち帰れる
- 野菜ビリヤニはハーフ1,200円/フル2,000円。肉は使っていない
- トンカバニラプリン800円、自家製バスクチーズケーキ800円、ゲイシャのエスプレッソのティラミス1,000円
- メニューに★の付いたカクテルは、ノンアルコールでもつくってもらえる
- 青森・長野のりんごジュース、長野 阿部農園のぶどうジュースが三種類
- 電源はカウンター席の後ろ。角の席なら隣にある
- 支払いはカードとキャッシュレスが使える
- 荷物をかける金具を貸してくれる
- 昼は「摩天楼珈琲」として、日替わり店長が営業している
- 2026年7月14日にプレオープン、8月4日グランドオープン。まだ新しい店
Shop店
深夜喫茶 幻想(しんやきっさ げんそう)
〒103-0002 東京都中央区日本橋馬喰町1-6-5 SANGO 1階
営業 18:00〜24:00/ラストオーダー23:00/火〜金
Instagram @shinyakissa_genso
昼の営業: 摩天楼珈琲 @matenrou_coffee
たくみさんの店: RAUHAA KOFFEE @rauhaa_koffee(木・金 8:00〜17:00)
この記事は店の公式サイトではなく、幻想に通う一人の客が書いた個人的な記録です。店主とスタッフの撮影・掲載の許可をいただいています。営業時間やメニューは変わることがあるので、最新の案内は店の公式Instagramをご確認ください。